イスラエルから来た悲劇のフレンチ・ポップ・スター、マイク・ブラント!

彼の生涯を紹介しているHPを見て、思わず悲しく切ない思いに駆られました・・・。
そのHPから少し紹介していきます。


1970年代初頭のフランス音楽界に彗星のごとく現れ、たった5年間の活動期間を経て、突如としてファンの前から永遠に姿を消してしまった伝説のスター マイク・ブラント。

マイク・ブラントはイスラエルの出身で、両親はポーランドユダヤ人だった。父親のフィシェル・ブラントはレジスタンスの闘士で、母親ブロニアはアウシュビッツの生存者。二人は難民収容所で知り合って結婚した。戦時中の悪夢を忘れるために約束の地パレスチナで新しい人生を始めようと考えた二人だったが、彼らの乗った船は英国軍によって沈没させられてしまう。二人は一時的にキプロス島に避難したが、そこで当時妊娠中だった妻ブロニアが産気づいてしまった。その時に生まれたのが長男モシェ、つまり後のマイク・ブラントだったのである。1947年2月1日のことだった・・・。

74年にポリドール・レコードと契約を交わし、新たにシモン・ワイントロブがプロデューサーとなった。相変わらず順調にヒット曲を放ち、ファン・クラブの会員が3万5千人を突破するなど、その人気は不動のものとなったかに見えたマイクだったが、この頃から次第に情緒が不安定となって行く。トップ・スターゆえに自由な時間もなく、行動範囲まで制限されてしまう生活の中で、マイクは人知れず孤独感に苛まれていたという。
その年の5月に行われたコンサートで、4曲目を歌い終わった時点で行方をくらましてしまったのが最初だった。その数日後には楽屋の鏡を素手で割って怪我をするというトラブルを起こしている。さらに、自宅が空き巣の被害に遭い、貴重品だけでなく彼の思い出の詰まった写真アルバムなどまで盗まれてしまったことから、極度の鬱状態に陥ってしまった。
周囲の勧めもあって、スイスのジュネーヴで休暇を取ることになったマイクだったが、宿泊したホテルの窓から投身自殺を図ってしまった。幸いに怪我は軽く、自殺は未遂に終わったわけだが、その後も極端な躁鬱状態を繰り返していたという。
パリに戻ったマイクは新曲のレコーディングを行い、相変わらずシングルは好調に売れ続けていた。だが、自殺未遂事件から5ヵ月後の1975年4月25日、マイクは友人のアパートのバルコニーから身を投げ、今度は永遠に帰らぬ人となってしまった。かつて袂を分ったジャン・レノーと再びタッグを組み、彼自身も自分の最高傑作と自負していたアルバムが発売された直後のことだった。その死はフランス中の音楽ファンに大きな衝撃を与え、遺作となったシングル“Dis-lui”(モリス・アルバートの名曲“Feelings”のカバー)は100万枚を売り上げる大ヒットとなった。

詳しくは。 → http://angeleyes.dee.cc/mike_brant/mike_brant.html


そんな彼、マイク・ブラントの数ある曲から1曲。

Laisse-moi t`aimer // Mike Brant


Mike Brant --- Rien qu'une larme ---

これからというときに命を絶つ・・。

生かされている。ということをもう1度考えてみたいです。